木村拓也さん急逝から8年 長男・恒希さんは今春から大学生

 

 プロ野球・広島、巨人で俊足巧打のユーティリティープレーヤーとして活躍した木村拓也さん(享年37)が亡くなってから7日で丸8年がたつ。東京ドームで行われた追悼試合で気丈に始球式を務めた、当時10歳だった長男・恒希さん(18)は4月から広島工大に進学。建築関係への就職を考える一方、プロへの夢をつなぐため野球を続ける。父亡き後は家族の精神的支柱の役割も担いながら、父の座右の銘「一生懸命」を心に留めて未来へ歩みを進めている。

 広島市の高台に建つ自宅リビングのフォトフレームの中で、木村さんは変わらぬ笑顔を見せている。2009年12月、豪州優勝旅行で撮った一枚が最後の家族写真になるとは誰も思わなかった。幼かった3人きょうだいの長男・恒希さんは、この春から大学生、妹の生吹(いぶき)さんは高校2年生、弟の俊生(としき)君は小学6年生になった。

 「妹は強豪校でバスケットボール中心の生活を送っていて、野球をやっていた僕の高校時代より大変そうです。弟も小学校でバスケをやっています」

 今では少しだけ元気を取り戻した家族だが、父の死はあまりにも衝撃的だった。10年4月2日、広島戦の試合前、ノッカーを務めていた木村さんは突然グラウンドに崩れ落ちた。くも膜下出血だった。広島大学病院に緊急搬送されたが、意識が戻ることのないまま、7日未明、帰らぬ人となった。

 「家に着いたら電話がかかってきて、すぐに病院へ向かいました。翌日からも学校には行きましたが、すぐに帰ったり。(容体が)危ないということは認識していました。8歳だった妹は、よく理解できてなかったと思います。まして弟は3歳ですから。僕も葬式のことは鮮明に覚えていますが、ショックだったのか(未明に訃報を)聞いた時のことは覚えてないんです」

 24日に行われた追悼試合で気丈に始球式を務め、原監督にも励まされたが、しばらくは心にぽっかりと穴が開いたままだった。

 「大歓声をいただいてありがたかったですが、プレッシャーもすごかった。原監督には『巨人は君を待ってるから』、谷さんには『タクの代わりに頑張れ』と言っていただきました。でも、その後、やっていたソフトボールにもなかなか集中できなくて。夏過ぎぐらいに試合に出ることが増えて、ようやく吹っ切れた感じでした」

 幼い頃から父は憧れの存在だった。小2からソフトボールを始め、父の“本職”の捕手をやった。中学で野球部へ。廿日市高では二塁、三塁、遊撃を守り、再び捕手転向を勧められたが、膝を痛めて手術。松葉づえ生活を強いられた9か月間のリハビリを経て、最後の夏は「5番・一塁」で出場した。父と同様、万能野手として活躍。「左打ち」も父をまねてのものだった。

 「小さい時から、父の試合をテレビで見ながら応援に使う“メガホンバット”を左で振っていたみたいです。記憶にあるのは、本当に野球のことばかり。打撃スイングの足の出し方とか、捕ってから送球までの動きなど、捕手のことも習いました。小学生の頃、捕手をやりたいと思ったのは、父がやったのを見てからでした【注】」

 周囲の期待が重圧に感じた時期もあったという。

 「父の動画のコメント欄に『息子も頑張れ』と書かれているのを見たりして、やっぱり期待されてるのかなと感じてました。高校に入ってからは気持ちの整理もできて少し楽になってきましたが、精神的にきつい時期もありましたね」

 大学1年生とは思えない、しっかりとした印象を受ける恒希さん。父は長男に厳しく接した。

 「自分には厳しかったですね。妹は女の子というのもあって怒られなかったし、弟は小さかったから、かわいがられていて。きょうだいゲンカをして手を上げたのがバレたら、家に入れてもらえませんでした。きょうだいは守ってやれ、と。弱い物いじめはするな、目上の人にはあいさつをしなさい、とも。小2ぐらいから言われ続けていましたが、今の自分があるのは、そういうしつけがあったおかげかもしれません」

 最後の会話も“説教”だった。

 「倒れる2日前にもきょうだいゲンカをして、母が父に話したんです。全力で怒られました(苦笑)。でも、一番僕のことを気にかけてくれていたんだと思います」

 心に留めている父の言葉がある。

 「常に言われてきた“最後まで全力で一生懸命”というのは、ずっと頭の中にあります。ソフトボールのチームに入りたいと言った時も『最初はボール拾いばかりで楽しくないと思うけど、やるんだったら辞めるな。最後までやり通せ』と。父がモットーにしていたことは、僕も受け継ぎたいと思っています」

 ただ、中学時代に初めに入った硬式シニアチームだけは途中で退部した。それは、長男らしく母を気遣ってのものだった。

 「朝も早いし、母の負担になると思って辞めました。続けていくと、母がさらに大変になると思って。妹もバスケを始めていましたし、気を使っていましたね」

 4月から広島工大で建築を学ぶ。

 「高2の時、母から建築の仕事に興味があったと聞いて、自分も面白そうだな、と思ったのがきっかけでした。いずれ1級建築士の資格を取れればと思っています」

 同時に野球も頑張る。

 「甘い考えですが、プロは幼稚園の頃からの夢でしたし、声がかかればいいなと。レギュラーになれるかどうかも分からないですが、周りより一歩でも二歩でも先にいれたら、その後もあるのかなと思います。個人的には二塁をやりたい。プロから声がかからなくても、社会人でやれたらいいなと思っています。父に言われていたように、結果が出るまでやり切る、ということはこれからも続けていきたいです。将来、何を始めるか分からないですが、始めようと思ったことは、最後まで絶対にやり通したい。大学が休みに入れば、マツダスタジアムでアルバイトもやりたいと思っています」(取材・田中 俊光)

 母・由美子さん「恒希は、すごくコミュニケーションを取ってくれる子なので助かっています。だいぶ頼れる存在になってきました。本人は意識してないんでしょうが、口調が似てきましたね。特に最近思います。表情、性格、しぐさも似ているので、野球をやっている姿、打撃フォームも似てるなあ、と感じながら見ていました」

 ◆木村 拓也(きむら・たくや)1972年4月15日、宮崎市生まれ。宮崎南高で1年夏に甲子園出場。3年時は捕手。90年ドラフト外で日本ハム入団。94年オフにトレードで広島に移籍し、97年からスイッチヒッターに転向。2004年アテネ五輪日本代表に選ばれ銅メダルに貢献。06年シーズン中に巨人移籍。09年引退。10年から巨人内野守備走塁コーチに就任も、4月2日の広島戦(マツダ)試合前にくも膜下出血で倒れ、同7日に死去。享年37。通算1523試合出場、1049安打、53本塁打、280打点、103盗塁。球宴出場2回。

 【注】09年9月4日のヤクルト戦(東京D)。延長11回、3人目の捕手・加藤が頭部に死球を受け退場したため、木村さんが12回、10年ぶりにマスクをかぶった。3投手を無難にリード。非常事態を脱して引き分けに持ち込み、巨人は優勝へのマジックを19に減らした。

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