初出場で2勝を挙げた明秀学園日立(茨城)金沢監督ここまでの苦労

 

春夏通じて初出場で2勝を挙げた明秀学園日立(茨城)は、31日8強をかけて大阪桐蔭(大阪)と激突する。2012年秋に同校監督に就任した金沢成奉監督(51=地歴公民科非常勤講師)は、かつて光星学院(現・八戸学院光星=青森)を率いて甲子園に8度出場。巨人の坂本勇らを育てた。ベンチ入り18人中、茨城県出身の選手は2人だけ。批判も多いが、金沢監督にはある「構想」があった。ここまでの苦労を聞いた。

――就任5年で甲子園。

「3年以内にという目標がありました。5年もかかってしまった。長かったですね。一生出られないのかなと思ったこともありました」

――なぜ茨城へ?

「前の川和監督が東北福祉大の1歳下だった。光星学院の最後の方は総監督だったので時間があって、月に1回でもいいから明秀日立で打撃を教えてくれないか、となった。すると、川和に監督を頼まれ、理事長が快諾してくれた。川和は今でも学校でGMのような形でサポートしてくれています。陰の立役者です」

――これまで順風満帆ではなかった?

「ゼロからのスタートでした。甲子園に行く、甲子園で勝つという気がない雰囲気でした。口では『甲子園に行きたい』と言いますが、甲子園を知る私からすれば、これじゃムリだよ、というのが正直なところ。学校、選手、父兄の意識を変えないといけない。甲子園に行くための本気度というのがありませんでした」

――最初の夏(13年)は県8強だった。

「霞ケ浦に負けて帰って来たらグラウンドで選手と父兄が笑いながら写真を撮っていた。父母会長に『ここまで連れて来てもらってありがとうございました』と言われ、『えー』って。衝撃的でした。ベスト8でいいのって。意識から変えていかないといけなかった」

――設備は?

「ボクが就任する絶対条件としてお願いしたのは、寮の設置だった。ところがボクが来ても寮がなくて……。就任して1年後にようやく寮ができて、ほぼ全寮制にして、そこからがスタートだったと思います」

――15年に暴力事件が起こり、2年生だけが出場停止になるという苦難も。

「(2年生に)レギュラーが4人くらいいた。野球さえやっていればいいというところがあって、ボクも勝ちたいがために甘やかしてしまったのかもしれません。あのときは常総よりウチが一番力がある年でした。結局、2年生の主力が抜けた夏は霞ケ浦に負け、最後の(16年)夏も決勝で常総に0―1で負けました」

■茨城の勢力図を塗り替える

――茨城県はその常総学院が君臨している。

「最初は常総のユニホームを見ると萎縮してしまう子が多かったが、年を追うごとに消えつつあります。近年は常総と霞ケ浦の2強。でも、この10年間、甲子園で勝っているのは常総だけ。結局、(元監督の)『木内野球』が茨城県のすべて。確かにいい野球です。スキがなくて試合巧者。要所で畳み掛けたり。さすがだなと思う。それに応えられる選手もたくさんいます。ウチが同じようなことをやっていても勝てない。常総の方が一枚も二枚も上手なので」

――対抗策は?

「甲子園に出る、勝つとなったとき、代名詞が必要。健大高崎の『機動破壊』、昔の『逆転のPL』。ウチの場合は『打って打って打ちまくる明秀日立』。これまでの茨城県にないようなスタイルでやっていこうと。徐々に実を結びつつある」

――メンバー18人中16人が県外出身者。

「就任当時はスタンドからヤジが飛んだりね。でも、改革というより革命だと思っています。血を流さないと。30年も甲子園に出られない県北で、壁を越えられない苦しさは現場の人間にしか分からない。周囲に何を言われようが、乗り越えないといけない。使命だと思っています。賛否両論あって当然。ボクのやり方がいいとは思わない。ただ、県北のエリアから必ず甲子園に出るんだという強い思いを持った子供たちと指導者でやっていることだけは事実。これは胸を張れます」

――まだ第1段階?

「オール県北、オール茨城で、名門常総に立ち向かう、乗り越えていく第1段階。理事長も『これが第一歩。ここからオール茨城、オール県北の明秀に徐々に移り変わっていければ』と言っています。やっぱり理想は地元の子たちでやること。そのための第一歩。その過程で批判があるのは受け入れます。現にエースの細川(OBの兄は現DeNA)は地元の子。増やしていかないといけない。今後はできるだけ県外の子とのバランスは取っていこうと思っています」

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